11月2日 8時40分 我が役者人生における師である脇坂奎平氏が永眠した。享年70歳
翌日11月3日が、遺作となった戦国シェイクスピア「マクベス」の初日、最後の演出作品を観ることなく去っていきました。
我々出演メンバーはそのことを知らされることなく、全公演を無事に終え、訃報を知ったのは千秋楽翌々日11月8日のことだった。
演出補を努めてくれた鼓太朗氏よりグループLINEで知ることとなった。
奥様は公演の制作をしており前日に家族葬お終えているとの事。
公演中には公演が終わったら見舞いに行こうと話していた直後の出来事で、知った途端、涙が溢れて、溢れて、溢れて、、、
同時に出演者のことを気遣い一人悲しみを背負っていた奥様春美さんの辛かったで有ろうことに深く心が締め付けられた。
師と出会ったのは1990年8月
故郷の愛知で役者をしていた自分が、上京し初めて出会った役者だった。
まずはオヤジ(師)の豪快さに度肝を抜かれた。話の中で「ウチ(ザ・チョンマゲ群団)はチャンバラミュージカルをやるんだ!面白いぞ!ガッハッハッ」と笑うオヤジの誘いに二つ返事で入団したのが始まり。
その頃まだ劇団としていたチョンマゲに入団し、バイトも劇団が持っている会社で大道具を始め、そのおかげで、オヤジと顔を合わさない日がない日々が10年続く事となった。
その間オヤジと話したことは芝居の事が殆どで、24時間芝居のことしか考えない日々が当たり前だった。
公演の稽古の時など本気で喧嘩した事も今では懐かしく、おかげでブレない役者になれた。
10年間役者として悔しい思いばかりしていたのだが、自分の失敗のおかげで去ることとなった。
その後オヤジに声をかけて貰い出演したのが今回の公演を含め三度目。前回8月にチョンマゲ群団30周年と題して「Chuji」をの公演前に、オヤジから電話をもらい「役者として最後だから見に来てくれ」と言われ驚いたが、ならばと思い観劇をした。
ガンの治療をしていたとは聞いたが想像以上の痩せ方に初めは判らないほど変わっていた。瞬間、これは尋常ではない状態だと感じた。
観劇を終え楽屋に挨拶に行くと疲れて横になっているオヤジが笑顔で手を上げた。
いつもの挨拶だが、その姿はただ事ではないと物語っている。
別れ際「後で、また連絡する」と言われ「???」と思った
数日後オヤジから電話があり、次の舞台に出てくれとオファーを貰った。
楽屋での状態を見ていた所為もあり、二つ返事で快諾する
稽古が始まると稽古場にオヤジの姿はなく演出補の鼓太郎氏が指揮を取ることをきかされた、しばらく稽古が続くがオヤジは状態が良くないとのことで詰めの稽古まで来ないと知った。
詰めに入ったころ数回オヤジは病院から稽古場に来て演出をする。その眼の輝きはいまだ現役、そして、自分の出演シーンをオヤジに見せると一言「流石だな、秀和」、、、
血が逆流した
そんなことはない、まだ足りないはず。その瞬間自分絡みの役者に、オヤジの前で自分が演出を付けていた。そんな姿を笑顔で見ているオヤジがそこにいた。
これが、オヤジと最後に交わした言葉となってしまった。
出会ってから27年、今まで一度も褒めてもらったことなどなかった、、、
それが、最後に一言褒めるなんて、、、やるせない
舞台が終わった後、春美さんから、「ワキがみんなと打ち上げやりたがっていたから」と、マクベスメンバーで改めて打ち上げとすることとなった。
良い座組にめぐり合わせてもらった、俺のよく知らない15年ほどの間に新たにオヤジと付き合ったメンバーばかり。自分の知らないオヤジの姿を教えて貰い、オヤジの足跡を知ることができた。
今、自分が役者で居られるのは間違いなくオヤジの存在があったからだと実感する。
沢山の事を学ばせて貰い、芝居に対する考えはオヤジと芝居を作っていた時代に根幹は築かれた事はわかっている。
いつか、オヤジに恩返しをしたいとずっと思っていたのに、自分の力不足で結局返せなかった、、、
幾人かの方には、脇坂を継ぐのは自分だと言って頂けたが、大きすぎて正直継げそうにない。
だが、伝えていくことができる。今までも色んな形で伝えてきたが、改めて自分が貰った物は本当に素晴らしいものだと感じることができる。この思いは決して忘れることはなく、しっかりと伝え続ける。
20年前にオヤジの前で宣言した「俺は死ぬまで役者を続ける」という言葉、オヤジが身をもって見せてくれた。
脇坂奎平というこんな素敵な役者バカがいたこと、そして自分の師であったことを心から誇りに思う。
俺の役者人生、一つの時代が終わった。
これからは自分の時代を創っていく。
オヤジ、、、本当にありがとう。
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